僕を救い続けている母からの言葉
中学2~3年の不登校時代。
同級生が嫌い。勉強が嫌い。学校へ行きたくない。
深い闇の中にあった。
そんなときでも、これまでと変わらない態度で接してくれたのが、母だった。
内心は深い不安があっただろうに、いつも笑顔で接してくれた。
特に今でも印象に残っている言葉がある。それは中学卒業間近の頃であった……。
フリースクールへ通っていた僕は、定時制高校へ通うこととなったのだが、そのときの進路指導の席での母の言葉というのが、今でも……というより今だからこそ心に響いてくるのだ。
厳密にいえば進路指導の席上ではなく、その帰り際のことだ。
僕と同じ不登校児の保護者の方から、母はこんなことを言われた。
「不登校児の親御さんたちは、子供の将来を憂えてみんな暗澹たる顔をしているのに、どうしてあなたはそんなに堂々としてらっしゃるのですか?」
すると母は、こう返した。
「だって不登校といっても、たかだか2、3年じゃないですか。長い人生の内のたった2、3年のつまづきで、この子の人生は決まりはしません。そう考えれば暗澹たる顔をする理由はありません」
……当時はなんとなく聞いていただけだったが、30歳を越えた今、ふとこの言葉が甦ってきているのだ。
自分が今、非正規労働者という立場にあって人生を絶望せずに済んでいるのも、中学のときの母のこの言葉のおかげではないかと……。
不登校にしろ非正規労働にしろ、その立場に陥った瞬間は非常に大きな挫折だと捉えてしまいがちだ。けど視野を大きく拡げてみると、どちらも人生という大きな流れのほんの一瞬のつまづきでしかないのだ。
もちろん、その一瞬のつまづきで、大きくレールは外れてしまうかもしれない。一般的なレールの上には二度と乗れないかもしれない。それでも何かのレールの上には絶対に乗っているのだ。
そして、人はそれぞれのレールの上でやれる事、否やりたい事をやればいいと思うのだ。それは単なる自己満足でしかないのかもしれない。他人から見れば無駄な事のように見えるかもしれない。
でも、一瞬のつまづきでその先の全てに絶望し、なにもしないで朽ちていくよりは、自分が今いるレールの上で、たとえ自己満足で終わったとしても何かを楽しみながら生きた方が、はるかに満足のいく人生になると思うのだ。
なので現在、不登校や非正規労働あるいはニート等の立場にあって、先の人生に絶望している人に対して、僭越ながら僕が言えることがあるとすれば、こう言えるかもしれない……、
「今あなたが感じている絶望は、あなたの人生の中のほんの一瞬のつまづきにすぎません。そのつまづきは、あるいは二度と取返しのつかないつまづきかもしれません。けどそれでもあなたは何かのレールの上で人生を歩んでいるのです。絶望なんていつでも出来ます。その前に何かやれる事、やりたい事をやってみませんか?絶望するのは、その後でいいのです。難しい事は考えずに些細な事でいいので、何かをやってみてはいかがか?」
*この記事は、当ブログにて1年前に投稿した記事を加筆修正したものです。よって現在(2019年12月)の僕の心境とは微妙に異なります。