気ままに生きる男の気ままな日常

非正規雇用で気ままに生きている男が気ままに綴っています。

僕は「普通の人」恐怖症……

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当たり前なことだが、この世には様々な性格の人がいる。

笑顔の素敵な明るい人、よく怒る粗暴な人、憂いを帯びた暗い人、楽天的な人……等々、十人十色、千差万別である。

 

もちろん、人間とは多面的な生き物だ。一概に「この人はこういう性格だ」と言い切ることは出来ないし、そもそも僕はそういう短絡的な考えには嫌悪感すらある。

だが僕の経験上、人間は多面的ではあるが、ある一面が程度の差はあれど前面に出やすくなる傾向があるように思う。喜怒哀楽……育った環境や出会った人の影響で、どの面が一番強く出るかは人それぞれだが、必ずどれかの面が出やすくなるものなのだ。

 

しかしこの世には、その喜怒哀楽の感情が全く均等に表出するタイプ……所謂「普通の人」と呼ばれるタイプの人がいる。僕は、この「普通の人」というのが、大の苦手である。

 

 

何故か? 状況に応じて適切なコミュニケーションを取らなければならないからだ。

喜怒哀楽その他、ある一部分の感情の表出が強い傾向の人は、その強く表出される感情に同調してあげれば一定のコミュニケーションが取れる。

 

しかし、どの感情も均等に表出する人は、その時々で表出されている感情に応じた対応を取らなければならない。喜んでいるとき、怒っているとき、哀しんでいるとき、楽しんでいるとき……それぞれの感情に逐一それなりの同調を示さなければならない。しかも、その同調も過度であってはならない。適度な感情量でなくてはならない。

 

喜びを表現しすぎると引かれてしまい、怒りを込めすぎると反感を買われる。

哀しみを込めすぎると気まずくなり、楽天的でありすぎると馬鹿にされる……。

 

僕はコミュニケーション能力に自信がない。一人の人間を相手に、そのように多面的に且つ適度に接することは出来なくはないが、結構しんどい……(笑)。

僕は基本的に一人の人間に対し、一面的にしか接することが出来ない。大抵は無表情だ。それが一番楽だからだ。そして相手の性向に応じて、喜怒哀楽のどれかの情を、無理のない範囲で表出させるのだ……。

 

しかし「普通の人」には、その手が通用しない。平均的であることを求められるのだ。

 

平均的……お世辞にも平均的な人間とは言い難い僕のような人間にとって、これほど難しい態はない。これからも僕に無理を強いてくる「普通の人」は避けて生きていきたい……。