気ままに生きる男の気ままな日常

非正規雇用で気ままに生きている男が気ままに綴っています。

特殊な者は特殊な世界で生きるしかないのか? 「特殊な凡人」の存在は許されないのか?

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ここに二人の男性がいる。

 

一人は、こう言った。

「僕は繊細な作業は出来ないが、物を持ち上げたり、体を動かしたりすることには抵抗はありません。否、むしろ好きです」

ある者が、こう返した。

「そうか。そんなに好きなら重量挙げの選手やスポーツ選手を目指したらどうだ?」

彼は答えた。

「いや、そのような高みを目指す能力や情熱はありませんが、それを活かした単純労働ならば出来ます」

返した者は思った。

「それもまた善し」……と。

 

 

一方もう一人は、こう言った。

「私は力仕事や荒々しい仕事は出来ないが、手先の器用さを活かした繊細な作業なら抵抗はありません。否、むしろ好きです」

ある者が、こう返した。

「そうか。そんなに好きなら料理や手芸の先生や職人を目指したらどうだ?」

彼は答えた。

「いや、そのような高みを目指す能力や情熱はありませんが、それを活かした単純労働ならば出来ます」

返した者は思った。

「なんと女々しく、軟弱な半端者なのか」……と。

 

……単純に得手不得手の問題のはずなのに、なぜ一方に対しては肯定的なのに、もう一方に対しては否定的なのか? それは一方の力仕事を好む者が男性として多数派なのに対し、もう一方の繊細な仕事を好む者が少数派だからなのだろう。もちろん、上記のような例は、少々極端だとは思う。全ての労働の場が上記のような価値観というわけではないだろう。しかし大体の総意として「男性は力仕事、女性は繊細な仕事」、ホワイトカラーの仕事ならば「男性は総合職、女性は一般職」という認識は根強い。そのような認識の中、上記のような繊細な仕事を好む男性は、男性という種の少数派…所謂「特殊な者」として忌避され、世に認められるには料理や手芸の先生、職人等、一握りの権威ある存在にならなければならない傾向にある。「特殊な者」は、その特殊性を究めなければ認められない。特殊性を抱えたまま平凡に生きることは許されないのだ。

 

その最たる例が、発達障害者の方々であろう。彼らに対する世間の声としてよく聞かれるのが、「あの有名なスティーブン・スピルバーグスティーブ・ジョブズ発達障害者なのだから、あなたも希望を持て(総意)」という言葉だ。これは一見すると発達障害者への励ましに聞こえる。しかし、私にはとてもそのようには受け取れない。言うまでもなく、スピルバーグジョブズは平凡とは程遠い、特殊な才能を究めた特殊な世界の住人である(しかもその世界の中でも一握りの権威者である)。当然ながら全ての発達障害者が特殊な世界の住人になれるわけではない。大多数の発達障害者は、健常者と同様に平凡を望むはずだ。だが、世間は彼らに対し、上記のような特殊な世界の住人たちをロールモデルとして提示しようとする。「お前たち特殊な者は、特殊な世界で生きろ。我々凡人の平凡な世界には入ってこないでくれ」という想いが込められているような気がするのは、はたして私の単なる邪推なのだろうか?

 

事程左様に、現代の社会は障害者やある種の特殊な性向の人間に対しては、平凡な世界で生きることを許さず、特殊な世界へ押し込めようとする傾向があるように感じる。特殊性を抱えた者が、その特殊性を抱えたまま平凡に生きる……所謂「特殊な凡人」の存在が許される世界になることを切に願う次第である……。