気ままに生きる男の気ままな日常

非正規雇用で気ままに生きている男が気ままに綴っています。

障害や特殊性は個性ではない。自然に存在するものなのだ。

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「障害は個性」……これはよく聞かれる言葉である。要は障害というものを忌避するのではなく、その人独自の個性として肯定してあげようという趣旨の言葉である。障害のみならず、私のような一般的な男性とは少々離れた性向を持つ者のような、所謂「障害ではないものの周囲とは違う特殊な人」に対しても、似たような言葉で、その特殊性を個性として肯定しようという風潮がある。

 

しかし私は思う。障害や特殊性を特別な個性として扱おうとする考えそのものが、すでに差別のような気がする……と。

 

 

 

 

 

 

こんな話を聞いたことがある。とあるライターが取材のため、あるアメリカ製のアニメ(たしかトランスフォーマーだったと思う)を視聴した。そのアニメの主要人物の中に、車椅子に乗った少年がいた。視聴していたライターは思った。「これはきっと劇中でどうして彼が車椅子を使用することになったのか、説明があるに違いない。そして終盤には、彼が元通りに歩けるようになる展開が待っているに違いない」と。しかし、いつまで経ってもそのような展開にはならないどころか、彼が車椅子を使用している理由すら説明されないまま、作品はラストを迎えたのであった……。

 

件の少年は、天才少年という設定である。そのため、車椅子に乗せることで安楽椅子探偵的なイメージで彼の知性をビジュアル的に表現しようとしたに過ぎなかったのだろう。つまりアメリカの制作スタッフにとって、「車椅子」とはキャラクターを表現するための単なる「記号」でしかなかったのだと思う。

 

彼らアメリカ人は、車椅子というものを我々日本人が捉えるところの眼鏡や帽子のように、それ自体を単なる「記号」として認識する思考……言い換えると、車椅子の乗った少年を車椅子に乗ったまま「普通の人」として扱う思考……「ノーマライゼーション」が発達しているのだろう。そして我々日本人は、それが発達していない。だからこそ、件のライターは、少年が車椅子に乗っていることに特別な意味を見出そうとしてしまったのだろう。

 

ノーマライゼーションの欠如……これは、アニメを視聴するときのみの問題ではない。障害や特殊性を抱えた人達に対する考えにも大きく関わってくることだ。我々日本人は、障害や特殊性というものを自然に受け入れられない余り、それらに特別な意味を見出そうとして、忌避したり、特別な個性として扱おうとしてしまうのだろう。

 

しかし、本来はそれらの障害や特殊性といったものは、その人の内に自然と存在するもののはずだ。それ自体に特別な意味など存在しないし、ましてや性格的な個性足りえないはずだ。障害や特殊性を受け入れたまま「普通の人」として扱う……「ノーマライゼーション」を少しだけ世間は心掛けて欲しいと願う。

 

もちろん、「ノーマライゼーション」が発達すれば、無条件で生き易くなるかというと、そうではないだろう。「普通の人」として扱うということは、良くも悪くも同じ土俵に立たされるということだ。それはそれで別の生き辛さを生むだろう。

 

だからこそ、少し……ほんの少しの「ノーマライゼーション」を心がけて欲しいと願う次第である……。