私は「非学者」でありたい(初心者を見下すという行為について)
先日、何気なくTwitterを眺めていたら、とある歴史ファンのアカウントにて、ある言葉について意見が交わされていた。その言葉とは「非学者論に負けず」である。言葉の意味としては……、
無学な人間は、筋道の通った論議に対しても、言を左右にして、なかなか屈伏しようとはしないことをいう。学問のない者に、道理を説いても無駄であることのたとえ。
情報・知識&オピニオン imidas 会話で使えることわざ辞典より引用
……要は、「知識の無い人は理屈が理解出来ないのだから、相手にするな」ということだ。言葉自体は一理あると思うし、件のアカウントにて交わされていた意見も、大体が言葉の成り立ち等、当たり障りのない健全なものだった。
続きを読む障害や特殊性は個性ではない。自然に存在するものなのだ。
「障害は個性」……これはよく聞かれる言葉である。要は障害というものを忌避するのではなく、その人独自の個性として肯定してあげようという趣旨の言葉である。障害のみならず、私のような一般的な男性とは少々離れた性向を持つ者のような、所謂「障害ではないものの周囲とは違う特殊な人」に対しても、似たような言葉で、その特殊性を個性として肯定しようという風潮がある。
しかし私は思う。障害や特殊性を特別な個性として扱おうとする考えそのものが、すでに差別のような気がする……と。
続きを読む小学生……それは原初にして究極の存在
小学生とは、無邪気なものである。
最近の小学生はませた子が多いので、どうだか分からないが、僕ら世代(30代)までの小学生は無邪気だった(少なくとも僕の周囲はそうだった)。
小学生の価値観は、実にシンプルだ。
“食べたいときに食べ、飲みたいときに飲む。やりたい事をやり、やりたくない事はやらない”
……実にシンプルだ。
続きを読む僕は「普通の人」恐怖症……
当たり前なことだが、この世には様々な性格の人がいる。
笑顔の素敵な明るい人、よく怒る粗暴な人、憂いを帯びた暗い人、楽天的な人……等々、十人十色、千差万別である。
もちろん、人間とは多面的な生き物だ。一概に「この人はこういう性格だ」と言い切ることは出来ないし、そもそも僕はそういう短絡的な考えには嫌悪感すらある。
だが僕の経験上、人間は多面的ではあるが、ある一面が程度の差はあれど前面に出やすくなる傾向があるように思う。喜怒哀楽……育った環境や出会った人の影響で、どの面が一番強く出るかは人それぞれだが、必ずどれかの面が出やすくなるものなのだ。
しかしこの世には、その喜怒哀楽の感情が全く均等に表出するタイプ……所謂「普通の人」と呼ばれるタイプの人がいる。僕は、この「普通の人」というのが、大の苦手である。
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