気ままに生きる男の気ままな日常

非正規雇用で気ままに生きている男が気ままに綴っています。

2019-01-01から1年間の記事一覧

僕は「普通の人」恐怖症……

当たり前なことだが、この世には様々な性格の人がいる。 笑顔の素敵な明るい人、よく怒る粗暴な人、憂いを帯びた暗い人、楽天的な人……等々、十人十色、千差万別である。 もちろん、人間とは多面的な生き物だ。一概に「この人はこういう性格だ」と言い切るこ…

非正規労働者である僕が「やれるorやりたい事」

先日、不登校時代の頃の母との思い出について少し綴った。(詳細は以下の記事にて) chijoji.hatenablog.com この記事の中で僕は、「生き辛さを抱えている人は、絶望する前にやれる事orやりたい事をやってみてはどうか」という主旨のことを綴った。 「やれる…

しんどい状況でも少しのポジティブを……

現在僕はとある製造会社に勤めていることは、以前の記事で書いた(詳細は以下の記事にて)。 chijoji.hatenablog.com chijoji.hatenablog.com その会社に昼勤で勤めるようになって、もうじき8か月が過ぎようとしている。 その間に、色々な変化があった。 主…

「聞き役」に徹し過ぎたことの代償……僕の「聞き役」体験談

僕は、所謂「一方的に話す人」と呼ばれるタイプの人達に対し、忌避感を覚えてしまう……というのは、以前の記事で書いた。(詳細は以下の記事にて) chijoji.hatenablog.com chijoji.hatenablog.com 上記の記事の中で僕は、「自分は聞き役に徹し過ぎたことで、…

社会不適応界隈の「著名人」たちに興味が持てない

この世には社会に馴染めず、自分なりの方法で成功を収めた人達がいる。 シェアハウス「ギーグハウスプロジェクト」の発起人である、元「日本一有名なニート」phaさん。 しょぼい起業こと「イベントバーエデン」の発起人。えらいてんちょうさん。 「0円で生き…

僕を救い続けている母からの言葉

中学2~3年の不登校時代。 同級生が嫌い。勉強が嫌い。学校へ行きたくない。 深い闇の中にあった。 そんなときでも、これまでと変わらない態度で接してくれたのが、母だった。 内心は深い不安があっただろうに、いつも笑顔で接してくれた。 特に今でも印象に…

「装甲騎兵ボトムズ」との出会い

フリースクールへ通っていた時を含めた不登校時代に僕がしていたことは、母の買い物に付き合ったり、レンタルビデオ店に通うことだった……というのは、以前の記事で書いた。(詳細は以下の記事にて) chijoji.hatenablog.com 今回は、そのレンタルビデオ店通…

フリースクール……それは「子供」時代への回帰……

1999年、不登校児だった僕は、中学3年に進級とほぼ同時に、市の公民館の一室にある、生徒数総勢10名程度のフリースクールへと通うこととなった。 詳しい制度はよく分からなかったが、フリースクールへ通えば、現時点で籍を置いている学校に「出席」している…

不登校……そしてフリースクールへ通うまで……

1998年、僕は学校へ通わない不登校児となった。 一時的に保健室登校をしていたが、程なくして全く学校へ通わなくなってしまった。通う意味を見いだせなかった上に、同級生への嫌悪感がどうしても拭い去れなかったのだ。(詳しくは以下の記事にて)

中学の不登校の原因について、今にして思うこと……。

僕が中学校に通えなくなった理由については、以前の記事で書いた。(詳細は以下の記事にて) chijoji.hatenablog.com しかし、今つらつらと思い返すに、他にも理由があるようにも思う。 それももっと単純な、そしてもっと物理的な何かが……。

不登校……保健室登校をしていた頃……

1998年、中学2年に上がってしばらく後、僕は学校へ通わなくなった。 しかしその2年の3学期頃だったか、僕は一時的に「保健室登校」をしたことがある。 最初に「保健室登校」を薦めたのが誰だったかは忘れてしまったが(おそらく母だったと思う)「保健室登校…

不登校……毎日学校へ嘘の電話を入れる母……

中学2年の6月頃、学校を欠席し始めた。 1998年6月某日、 特別嫌な出来事があったわけでも、体調が悪かったわけでもなかったが、あまりにも学校へ行きたくなくて、 「体調不良です」 と母に学校へ電話させてしまった。

中学時代の不登校……それは社会不適応への歩み……

僕が中学生の頃、不登校になったことは以前の記事で書いた。(詳細は以下の記事にて) chijoji.hatenablog.com 今回はその頃について、もう少し詳しく綴ろうと思う。 中学校……6年という長い小学校生活を経て、大きく環境に変化が訪れるときだ。僕はこの「大…

高校時代第2のアルバイト……それは「労働者」としての僕のルーツ……

高校2年のときに、僕はスーパーで半年程アルバイトをした(詳細は以下の記事にて) chijoji.hatenablog.com それから約1年後の高校3年のときに、僕は2度目のアルバイトをすることになる。 選んだのはまたしても近所のスーパー(高校2年のときに勤めていた所…

高校時代のアルバイト……それはコミュニケーション下手のルーツ……

高校2年生の春。 人生初のアルバイトは近所のスーパーだった。2001年のことだ。 朝の9時から2時までの5時間で、週5勤務であった。 出勤して最初にやることは、菓子パンのコーナーで開店前の品出しを行う。これを1時間程。そして開店後は食料品のコーナーで残…

一方的に話す人の危険性について

僕は一方的に話す人に対し強い忌避感を抱いている、ということは以前の記事で書いた。(詳細は以下の記事にて) chijoji.hatenablog.com しかも僕の場合、忌避感と言っても、ただ単に「疲れる」とか「しんどい」ということだけに留まらない。上の記事に書い…

自らに余命を課すことで前向きに生きる……

「自分に無理をさせない範囲で、細々と生きていく」 ……これが僕の「個別な価値観」だということは、以前の記事で述べた。(詳細は以下の記事にて)

「個別な価値観」に準じようとする僕の現状

「個別な価値観」で生きる……。 ……がしかし、お金は稼がなければならない……。 当然である。そうしなければ、生活が出来ない。 そして最も手っ取り早い方法は、雇われ労働である。 だが雇われ労働は「一般的な価値観」に基づいた行動である。

「一般的な価値観」から「個別な価値観」へ……

「正社員にならなきゃ駄目だ」「もう少し将来の事を考えろ」「いつまでもこんな事をしていてはいけない」 ……派遣社員をしていると、このような言葉を何度となく浴びせられる。 確かにこれらの言葉は、ある種の正論なのだと思う。 しかし、その正論は「一般的…

自身のトラウマについて……心の傷に悩んだ2年間……

2年程前、僕はとある職場に勤めていた時に、あるトラウマを負ってしまった……。 トラウマを負うに至った詳しい経緯は以下の記事にて綴ったので、読んで頂ければ幸いである。

夜勤から昼勤へ……そして現在に至る……

2019年4月、現在勤めている会社にて、夜勤から昼勤へと移った。(現在の職場への入社の経緯は以下の記事にて)

現在の職場……そしてブログやTwitterの世界へ……

2018年2月、給湯器の製造会社を退職した。 精神が限界を迎えてしまったからだ。(詳しくは以下の記事にて)

ハイパーアクティブな人々……一方的な話し手たち……

前回までに2記事にわたって、僕の苦い恋愛体験とそれによって負ってしまったトラウマについて綴った。(詳細は以下の記事にて↓)

捨てたはずの恋愛感情……そして負った心の傷……(後編)

2016年、僕はとある給湯器を製造している会社に勤めることになった。 そこである女性を好きになってしまった。様々な想いがない交ぜとなり、とても辛い日々を過ごしていた……。(詳細は前編にて↓)

捨てたはずの恋愛感情……そして負った心の傷……(前編)

2016年5月、飛行機部品の製造会社を半ば追い出されるようにして退職した。 次に選んだ仕事は、給湯器の部品を造っている会社だ。

アットホームな職場……それは「自由という名の牢獄」……

2015年9月、電力会社を退職した僕は、当時所属していた派遣会社の紹介である機械部品の製造会社に勤めることとなった。

電力会社での勤務……それは束の間の平穏……

2013年11月にパチンコの製造の仕事を辞めた。 精神に限界がきていたのと、主流派であるヤンキー連中と不仲であったことで、会社内での立場も悪かったのだ。

パチンコ台の製造……或いは解放されたエゴ……

2011年4月、パチンコ台の製造業務に就いていたが、所属部署の劣悪な雰囲気に耐えられず、異動することとなる……。(詳細は以下の記事で…)

パチンコ台の製造……狂犬の群れの中にあって……

2010年、パチンコ台の組み立て及び検査の仕事に就いた。 以前経験があったので、こなせる自信があったのだ。

仕事を転々とする日々……そしてリーマンショック……

とある製造工場に派遣社員として、フルタイムで働き始める。 あるモーターを造っている工場だったが、スーパーでのアルバイトとはあまりにも違う暗い雰囲気に耐えられず、3日で辞めてしまった。やっぱり苦労して高収入を得るよりも、無難に稼いだ方がいいと…