気ままに生きる男の気ままな日常

非正規雇用で気ままに生きている男が気ままに綴っています。

私は「ネガティブ」を肯定する

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私は「夜」が好きだ。夜桜や満月の美しさは言うに及ばず、夜の人や車の通りが少ない街中をドライブしていると、自分を取り巻くあらゆる呪縛から解放されたような清々しい気持ちになれる。夜の静寂の中で思索に耽ったり、読書をしていると心がとても落ち着く。「夜」には昼の明るさや賑やかさには無い魅力が沢山ある。

 

 

思考においても同様だ。昼の光の如き明るく快活な思考よりも、夜の闇の如き暗く静かな思考を好む。「自分は何者なのか?」「何故自分は駄目なのか?」「何故生き辛い?」「何故自分或いはあの人はあのような考えをもつのか?」……これら闇の思考の中に沈み込み、自分なりの回答を導き出すことは、とても楽しく、そして有意義だ。

 

しかし、このような思考を他人に披歴すると、「考えすぎるな」「元気を出せ」等のような慰みや哀れみの言葉を掛けられることが非常に多い。私としては甚だ遺憾である。私は己の闇の思考を恥じたことはない。闇の思考は自分を見つめ、そして知ることが出来る意義のある思考だからだ。

 

なのに何故他者は上記のような言葉を投げかけるのか? それは世間一般的に広く流布されている「ポジティブ至上主義」という価値観にあると思う。明るく快活な光の思考は「ポジティブ」として肯定され、暗く静かな闇の思考は「ネガティブ」であるとして否定される。……このような価値観が根底にあるから闇の思考に対し、上記のような慰みや哀れみをかけることで否定しようとするのだろう。そして多くのネガティブ思考の人達は、己の思考を否定してポジティブであろうとする。

 

たしかにポジティブは気持ちを明るくさせてくれる。しかしだからといって、ネガティブは否定されるべきものなのか? 自分自身に問いかけ、思考し、時に悩んだり不安になることは無意味で不毛なのか? 私はそうは思わない。悩みや不安といったネガティブな思考は、その思考が深ければ深いほど、己の知られざる一面に気づかせてくれる。ポジティブ思考では到達しえない境地へと誘ってくれる。

 

人は昼の明るい光だけでは生きてはいけない。夜の暗い闇も必要なのだ。

昼が好きな人もいれば、夜が好きな人もいるだろう。両方同じぐらい好きだという人もいるだろう。そこには好みや性質の違いがあるだけで、是非があろうはずはない。思考もまた然りなのだ。多くのネガティブ思考の方々が己の思考の素晴らしさに気づいてほしいと思う次第である……。