気ままに生きる男の気ままな日常

非正規雇用で気ままに生きている男が気ままに綴っています。

小学生……それは原初にして究極の存在

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小学生とは、無邪気なものである。

最近の小学生はませた子が多いので、どうだか分からないが、僕ら世代(30代)までの小学生は無邪気だった(少なくとも僕の周囲はそうだった)。

 

小学生の価値観は、実にシンプルだ。

 

“食べたいときに食べ、飲みたいときに飲む。やりたい事をやり、やりたくない事はやらない”

 

……実にシンプルだ。

 

 

小学生には、所謂「しなければならない事」が少ない。

あるとすれば学校へ行かなければならないことと、宿題をしなければならないことぐらいだろう。

 

よって小学生は自身の欲求に基づいた行動を、大人よりも多くとることが出来る。

 

これが中学生や高校生になると、「成績を上げたい」「内申点を上げたい」等々、社会的な欲求……所謂地位や名誉といったものを欲するようになってくる。

僕はこのような価値観にはとてもついてゆくことが出来ないし、今でもそのようなことに血道をあげていた当時の同級生たちの心情を理解することは出来ない。僕が望むのは、あるがままに無為自然と生きることである。

 

しかしそうは思っても、現実にはなかなか上手くはいかない。何故ならこの世の中は、ある程度の社会的欲求がなければ生きてはいけないように出来ているからだ。例えば生活のためにある会社に入社したとする。初めは当然ながら平社員だ。任される責任も軽いことだろう。しかし年数が経つににつれどんどん出世し、立場が上がっていく。そして責任も重くなっていく。

 

ここで出世欲……つまり社会的欲求の強い人間ならば、その欲求に従いどんどん仕事をこなし、認められてさらに出世できることだろう。しかしそうでない人間は、重責に耐えかねてミスや失敗を重ねて評価が下がり、最悪は退職に追い込まれる。退職していまえば当然収入がなくなり、困窮することになる。困窮すれば生活に困ることになり、生き辛さを生む。

 

……事程左様に世の中は欲が無ければ基本的には生き辛くなるように出来ていると思う。無為自然に生きようにも、それが叶わないように出来ているのだ。社会的欲求を持つことが是とされるのだ。

 

だが、その社会的欲求と無縁な存在がある。それが小学生だ。

上記したように、彼らの価値観は実にシンプルである。そのシンプルさは正に無為自然である。人が生きるための根源的欲求しか持っていないと感じる。

 

“食べたいときに食べ、飲みたいときに飲む。やりたい事をやり、やりたくない事はやらない”

 

……小学生……。根源的欲求に従い生きる彼らは、人間の原初にして究極の存在なのかもしれない。