気ままに生きる男の気ままな日常

非正規雇用で気ままに生きている男が気ままに綴っています。

アットホームな職場……それは「自由という名の牢獄」……

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2015年9月、電力会社を退職した僕は、当時所属していた派遣会社の紹介である機械部品の製造会社に勤めることとなった。

 

 

その会社は、以前までは主に自動車の部品等を造っていたそうだが、この度新しく航空機の部品を造る事業を始めたそうだ。それにあたって新しく人が必要になった。それで僕の派遣会社にお声がかかったのだ。

 

会社の工場で主に造っているのは、飛行機のエンジン部分(翼の下に付いている円筒状の部分)の中に付いている羽根(ファンブレード)である。

仕事そのものはライン作業で進められるため、一人あたりの作業量も少なく大変ではないのだが、問題は人間関係にあった。そしてその問題の根は会社の工場長にあった……。

 

工場長は関西の人だった。関西人らしく実に陽気な人で、よくある会社の上役のような威張ったところが一つもなく、僕らのような末端の作業員にも気さくに話しかけてくれた。しかし、僕はそれが次第に苦痛になってきた。

 

現場の最高責任者が率先して皆とコミュニケーションをとっていると、その姿勢は当然下の人間にも伝染する。現場の人間たちは工場長を見習って皆が積極的にコミュニケーションをとるような現場になっていた。所謂アットホームな職場というやつだ。

 

これは一見良いことのように見える。だが、僕にとってはそうではなかった。積極的にコミュニケーションをとるということは、裏を返せばコミュニケーションをとらなければならないということだ。僕は労働の場においては必要最小限のコミュニケーションのみで、後は自分に与えられた業務をこなすだけでいたいのだ。余計なコミュニケーションをとると疲れてしまう……。

 

そのようなスタンスの僕だから、程なくして周囲から冷たくされるようになり、最終的には半ば追い出されるようにして退職していくこととなる……。

 

……責任者という存在は、無色透明であるべきだと思う。責任者が己のカラーを全面に出しすぎると皆がそのカラーに染まる。そしてカラーに染まった者は、周囲にもそのカラーに染まることを無意識の内に強要する。そうなれば当然染まり切れない者も出てくる。例えそれが大多数の人にとって好ましいアットホームな雰囲気であっても……。

 

確かにアットホームな雰囲気が醸し出す疑似家族的な関係は、職場特有の堅苦しさがなく、ある程度は自由に振る舞うことが許される。だがその自由を苦痛に感じる者もいる。そのような者たちに対し、「自由を謳歌しろ」と己に都合のいい事由を強制する大多数の人々……。

 

……「強制された自由」……矛盾の極みである……それは「自由という名の牢獄」だ……。