一方的に話す人の危険性について
僕は一方的に話す人に対し強い忌避感を抱いている、ということは以前の記事で書いた。(詳細は以下の記事にて)
しかも僕の場合、忌避感と言っても、ただ単に「疲れる」とか「しんどい」ということだけに留まらない。上の記事に書いた通り、大きな悩みを抱えて精神的に辛かったときに一方的な愚痴や自慢話を浴びせられ続けたという経験があるため、もはや忌避感というよりも恐怖感に近いものがあるかもしれない。
以下、僕が思う一方的に話す人々の危険性について綴ってみた……。
思い込みが激しい
一方的に話す人というのは話し方のみならず、その思考においても一方的な人が多いように思う(だからこそ一方的に話してしまうのかもしれないが…)。
こういう人は他人のどのような行動や言動も自分なりの価値観のみで勝手に判断し、尚且つその判断について他者に意見を求めることをしないため、決して己の判断を是正することをしない。「思い込んだら一直線」というやつである。
こういう人には意見が言えない。よしんば言ったところで否定されるか聞き流されるのがオチである。よって会話が成立しないので、一方的に聞くしかないのだ……。
常に外罰的
意見を言うことも許されず、ただ一方的に他人の話を聞かされるのは疲れる。しかし、一方的に話す人はそんな他人の疲弊など御構い無しに喋り続ける。つまり自省能力が著しく欠如している可能性がある。よしんば自省したとしても、他人の意見を取り入れることが出来ないため、自省の仕方も独り善がりなものになっていることが多い。
このように自分を省みることが出来ない乃至は独り善がりな自省しか出来ない人は、自分にとって不都合なことが起こった場合、自分よりも他人の問題点ばかりに目が行きがちである。厳密に言えば「他人に問題がある」という思考に捕らわれてしまっている、ということだ。
この様な人と相対していると「自分もいつこの人に敵意を抱かれるか分からない」という疑惑に怯えていなければならない。よって下手な意見など言わずに、ただ黙って話を聞いているのが無難だということになる……。
他人を一面的にしか判断出来ない
一方的に話す人はその思考においても一方的であるということは上記で述べた。そしてその一方的な思考は、他人の人間性を測るときでも変わらない。
ある人が「A」という内面を表出させたとしよう。一方的に話す人はこうした場合、即座に「この人はAという性格の人なんだ」と短絡的に思い込んでしまう。当然ながらそんなはずはない。人間とは多面的な生き物である。「A」の面が表出するときもあれば、「B」や「C」の面が表出するときもある。
しかし一方的に話す人は、そのような想像力を欠いた人が多い。よって「A」の面ばかり見せていた人が急に「B」や「C」の面を表出させたときに「裏切られた」「こんな人だとは思わなかった」……と勝手に失望してしまうのだ。
このような人に対しては、常に同じ面のみを見せ続けなければならない。窮屈この上ない……。
……以上が僕が抱いた一方的に話す人の危険性だ。
この記事を読んだ方は、僕はさぞかし一方的に話す人を嫌っていると思ったことだろう。しかし決してそういうわけではない。…否、彼らに対してはもはや「好き」とか「嫌い」といった次元の感情が介入する余地はない。避けなければ自分の精神が傷つけられてしまう、だから避ける……ただそれだけなのだ。
人間が熊やライオンといった猛獣を避けるのと同じ理由だ。誰しも猛獣一頭一頭に対して好悪の情を抱いたりはしないだろう。ただ猛獣が人間に害を及ぼすから……だから避ける……それだけでしかないだろう。
僕が一方的に話す人を避けるのは、ただそれだけのことでしかないのだ……。